椎名林檎「正しい街」の意味や解釈を自分の現状に照らし合わせて思索する




その日も暇を持て余していた私は一人で近所を散歩、しばらくしてお腹がすいてきたので商店街にある日本食レストランに入りました。

 

ワクワクしながら注文したカツカレーがくるのを待っている時、椎名林檎の「正しい街」が店内BGMで流れ始めたんです。

 

「あ、椎名林檎。なつかしい」

 

オーストラリアに出発する前に、いつも車の中で聴いていた椎名林檎のファーストアルバム「無限モラトリアム」の1曲目が「正しい街」

 

せっぱつまるようなイントロのドラムと久しぶりに聴く椎名林檎の声はシドニーの小さな食堂でカツカレーを食べている私の意識をいっきに日本へ戻しました。

 

そして、当時は深く考えなかった「正しい街」の歌詞の意味を反芻し、私はいったいここで何をしているのだ、という気持ちになったのです。

 

 

その気持ちは後悔でもなく、隣の芝が青く見えるわけでもない。ただ見慣れたシドニーの景色がなんだか現実感のないものに映り、違和感が広がりました。

 

あの日飛び出したこの街と君が正しかったのにね

 

「この街を出よう」

「日本を出よう」

 

場当たり的な静かな衝動に引っ張られるようにして「この街」を飛び出した椎名林檎と自分をおそれおおくも重ねてしまい、またバカなことを考えてるなぁと、、、。

 

世間知らずの小娘が理想や夢を追うために地元を離れ「この街が正しかった」とわかってきたのに、もうどうしようもない。引き返せない。

 

そんな切なさやあきらめが自分の中にもあるのではないか?そんな想いにとらわれると、今いる場所に馴染んでいないフワフワした感覚になるのでした。

 

それはきっと「誰かのために地元を離れる」という国際結婚で海外移住したわけではなく、私はワーホリがきっかけでシドニーに移住したから。誰にも求められず、自分一人の意思でここに来たから。

 

今までオーストラリアにいる理由を問われると「仕事」と答えていました。

 

去年仕事をやめてから「もうここにいる必要はないのかも」という気持ちが心の片隅で存在感が大きくなったのも正直なところ。

そこへきて突然の椎名林檎の正しい街。

 

あの日飛び出したこの街と君が正しかったのにね

 

と切なく歌う彼女の歌声に自分の立ち位置というか、居場所のようなものがぐらぐらと不安定になっていき、かといって日本に帰りたいか?と聞かれれば、NOなのです。

 

地に足をつけたくても、それがどこなのかわからない。そもそも「地に足をつけたい」という願望があるのかすらも疑わしいんだけど。

 

数年前から事実婚パートナーと一緒に暮らしていますが、夫婦でも恋人同士でも友達同士でも人間関係ってのは不確定で、壊れるときはいとも簡単に壊れます。

 

だから、彼をよりどころにするのは違うな、と。

 

「正しい街」はどこなのかはわからないけど、海外で「外国人」として暮らす方が私にとってはイージーモードなのは間違いなくて。

椎名林檎の「正しい街」は彼女の地元・福岡・に残してきた恋人との別れについて歌っているとされています。

 

歌手という夢を叶えてくれるであろう東京が当時の彼女は「正しい街」だと信じていた、でも、思ったより大変で思ったよりうまくいなくて「あの日飛び出したこの街」に思いをはせているんだろうな、と想像できますよね。

 

さらに深読みすれば、自分の胸にひそむコントロールできない衝動に奔放されること、突き動かされることにため息をつき、抗うことができない焦燥感の中に高揚感も見え隠れしている印象も受けるのです。

 

何らかの理由で自らふるさとを離れた人はなんとなくわかるでしょう?

 

 

、、、、、と、以上のことを、シドニーの郊外の小さな街で思ったわけでして。

 

たった数分の歌「正しい街」で、見慣れた周りの景色や空気が変わり、心をざわつかせ、普段は考えもしないことを考えさせてしまう、そんな椎名林檎は才能の一言では片付けられないアーティストです。

 

 

これからも滞りなく日々は流れていき、こんなふうに「正しい街」について考えたことは忘れてしまう、だから書き残しておこうと思った次第です。

 

 

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ふくちゃん

静岡県からオーストラリア・シドニーへ海外移住した元保育士。現地での仕事を辞めて、ゆるゆると心地良い引きこもり生活の真っ最中。事実婚パートナーの中華系マレーシア人との適度に適当な暮らしをブログで綴ります。