【オーストラリア移住記念日】17年の薄っぺらいシドニー生活をざっくり振り返る

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どうやらオーストラリアに移住して丸17年たったようです。

 

ここでの生活を始めたのが7月の終わりだったような、、、、はっきり日付まで覚えてないんですよね。なので、タイトルの「移住記念日」ってのは、「ほぼ移住記念日」が正しいけど、まぁ細かいことは置いときましょう。

 

とにかく17年前の7月下旬、まだ20代だった私はユニクロの黒いリュックサックとピカピカのスニーカーともにシドニー空港に降り立ったんです。

 

その日は良く晴れた乾燥した日で、「おいおい、外国人ばかりじゃないか!」とこの国では私が外国人なのにおかしなこと思ったものです。

 

初めてオーストラリアに到着した日を「移住記念日」として覚えている人ってけっこう多いんですが、私はさっぱり記憶にありません。どうでもいいんです。到着した日なんて。

 

Facebookのキラキラ勢の「オーストラリアで暮らして●年になりました~♡」なんてどうでもいい投稿を見ると、「だからなんなんだよ、うぜぇな」と心の中で毒づくような人間ですから。(リアルではちゃんと大人の振りしてます。本音を吐くのはブログでだけ)

 

そもそも「海外で住むこと」をあまり深く考えてなかったんです。日本から出れればどこでもいい、そんな気持ちでした。

「海外で一旗あげてやろう」とか「英語ぺらぺらになっちゃおう」とか「外国人彼氏ゲット」みたいな高尚な目的もなく、本当に薄っぺらい17年でした。

 

親には「英語習得」を目的に1年間のワーキングホリデーだと言って日本をでました。そんな娘は17年たってもまだ日本に戻ることはありません。

 

では、かなりざっくりと17年を振り返ります。若者へのメッセージやアドバイスも特にありません。



ワーキングホリデー時代

到着してすぐに911テロが起きました。

 

シドニーの街は警戒態勢に入り、オペラハウスやハーバーブリッジ上空には警備のヘリコプターが、公共の交通機関には警察やセキュリティが監視する、というものものしい雰囲気になりました。

 

周りの留学生は帰国を決める人もいました。母からも「帰ってきたら?」の連絡があったものの、、、、、

 

あんな映像を毎日毎日繰り返しテレビで見せられたら、飛行機に乗れるわけないじゃんか、、、、

 

ここで勇気を出して日本に帰っていたら、今頃も日本にいたんじゃないかな。

 

ワーホリ時代は適当にアルバイトしながら毎日ふらふら過ごしてました。韓国人・タイ人の友だちとべったりの生活。それはそれで楽しかったなぁ。

ワーホリ終了、そのまま学生ビザで滞在を伸ばす。相方氏・タムタムとの出会い

ここにも日本帰国のタイミングがあったものの、「日本帰りたくねぇな」と、学生ビザに切り替え専門学校へ入学。

 

専門学校の入学式で隣の席に座っていたのが、現在のパートナー、マレーシア人のタムタムでした。

 

ありがちな出会いですね。

 

私は極貧学生だったので、毎日同じ服で化粧もせず髪もぼさぼさで通学してました。それでも彼は私のことをそりゃぁ熱心に誘ってくれたものです。

 

しょっちゅう学校をサボっては小汚い中華料理屋で安いランチを食べたり、コーヒーを飲んだりしていましたが、残念なことに、当時の私はタムタムが何をしゃべっているのかさっぱり理解していませんでした。

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2017.12.26

 

「この人は敵ではないな」

 

そのくらいの印象しかなかったんですよね。

 

月日が流れ、めでたく番い(つがい)となったわけです。

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シドニーでOL時代

留学エージェントで働いてました。留学やワーホリでオーストラリアにいらっしゃる日本人のサポート業務ですね。

 

良いお客様もいれば、そうじゃないお客様もいて、それでも楽しかったんですよね、頂いたお問い合わせに答えたり、対面でカウンセリングをしたりっていう業務は。

 

シドニー到着当時は初々しかった女の子のご相談内容がどんどん変化していくのがおもしろかったなぁ。

 

最初は「シェアハウスの探し方」とか「現地の携帯電話の申し込み」とか、そんなかわいらしい相談が、だんだん「オージーの彼と●●しちゃったんですけど、その時は●●だったんで、●●だと思ったんですけど、、、」みたいなね、ここでは伏字にしとかないとまずいな、というワードがもりもりでてくるようになるwww

 

60代、70代で留学を決めた方のサポートをさせて頂くこともありました。何かを学びたい、という気持ちに年齢なんて関係ないな、とシニア世代のお客様の姿に感化された私は軽率に専門学校への入学を決めました。

保育士資格を取得のために専門学校へ

オーストラリアに住むんだったら、この国の国家資格を取っておこうとチャイルドケア(幼児教育)の専門学校に入学しました。

 

オーストラリアは何歳になっても学びたい気持ちがあれば専門学校や大学に入学するので、私が30を過ぎて学生に戻ることを、誰一人として不思議には思わず、むしろ応援されたことが嬉しかったですね。

 

自分の意思と自分のお金で勉強すると、「身についてる感」があります。勘違いかもしれませんが。

 

でもまぁ、しょせん私です。

 

10代、20代の若いクラスメイトに宿題や試験勉強を手伝ってもらい、先生に媚びを売り、どーにかこーにか卒業しました。

シドニーで保育士時代

もうね、就職活動の時点でダメダメでしたよ。面接官が何を言ってるのかわからないんだもん。相当、きょどってたと思います。

 

「こいつは雇ってはいけない」と瞬時に判断できる人材だったと思いますよ、私は。仕事が遅いオーストラリアのくせに不採用通知は光の速さで届きました。

 

そんな私に救いの手を差し伸べてくれた幼稚園でだらだらと8年くらい働きました。待遇は良かったけど、だんだん働くのが面倒くさくなってきてしまい、5年目頃から「このままでいいのか」を日々考えるようになったのです。

 

仕事自体は楽しかったですよ。子どもたちもかわいかったし。

 

でもね、やっぱりダメなんですよ。くだらないミーティングや、休憩室のどうでもいいおしゃべりや、「みんなで目標達成しよう」みたいな雰囲気も。

 

外国人は良い意味でも悪い意味でもフレンドリーで、けっこうカジュアルに干渉してくる人もいるんです。私は友達作りのために仕事をしていたわけじゃないので、「話しかけられること」がストレスに変わっていきました。

 

これから海外就職を目指すみなさんにアドバイスはこちらの記事にまとめました。

 

そして、長期休暇中に一時帰国で日本に帰って、シドニーに戻る時にまさかの飛行機火災事故に遭ったのです。

「死ぬかも」と上空を旋回する飛行機の中で初めて「死」を意識した出来事でした。

 

この飛行機事故をさかいに、「いつ死ぬかわからないなら、好き勝手に生きよう」と仕事を辞めてしまいました。

 

ここから社会不適合者に転落していきます。

そして現在、おうちに引きこもって生活しています

どうです?薄っぺらい17年間でしょう?

 

点と点がまったく線に繋がらないでしょう?

 

だって、今、無職ですから。

 

失敗やつらかったこと、くやしかったことを踏み台にして成功している方は国内外問わずたくさんいるのでしょうが、私はネガティブな経験を踏み台にすることなく、そのまま引き連れて生きています。

 

癒えることない痛みならいっそ引き連れて~♪とミスチルも歌ってたじゃないですか。それですよ、それ。

 

でもね、今が一番充実しています。

 

仕事もしてないし、友達もいないから、毎日のスケジュールは、昼寝、ブログ、ツイッター、ゲーム、散歩、ひなたぼっこで埋まります。

 

明日も明後日も、きっと1年後もぼんやりシドニーで暮らしています。

 

お近くにお越しの際は遠慮なくお立ち寄りください。(社交辞令です)